2012/04/18

『まっぷたつの子爵』イタロ・カルヴィーノ(河島英昭 訳 / 晶文社)



これは童話のようだけれど童話にしてはひどく大人向き、という小説である。
というのは、この話は、ありえないおとぎばなしと、現実の人間そのものや人間が暮らす現実社会とがごちゃ混ぜだからだ。
子供向けならこんなに人間の心がリアルでなくてもいいと思う。分かりやすいハッピーエンドでいい。

物語の最後、語り手の「ぼく」の唯一の友(?)であるトレロニー博士は、「ぼく」を置いて土地を去ってしまう。そして、孤独な「ぼく」はこう呟く。
< 責任と鬼火とに満ちたこの世界に、ここに、ぼくは残されてしまった。>

まっぷたつになった「善」と「悪」の子爵メダルドが、元の姿に戻ったことについてはこうである。
< こうしてぼくの叔父のメダルドは善くも悪くもない、悪意と善意の入り混った、すなわちまっぷたつにされる以前の身体と見かけは同じだが、いまは完全なひとりの人間にもどった。しかも彼にはひとつになる以前の半分ずつの経験があったから、いまでは充分に思慮ぶかくなっていた。彼は子宝に恵まれ、正しい政治を行い、幸せな一生を送った。ぼくたちの生活もよくなった。子爵さえ完全にかえれば、すばらしく幸福な時代がひらかれるものと、ぼくたちは決めてかかっていたのかも知れない。しかし、当然のことながら、世界じゅうの人びとが完全なものになるためには、ひとりの子爵でたりるはずがなかった。(太字は私がつけたもの)
  童話なら太字の部分はなくていいのだ。しかし、そうしたら、本当に言いたいことはなくなってしまう。


< ぼくたちの感情はしだいに色褪せて、鈍くなっていった。そして非人間的な悪徳と、同じくらいに非人間的な美徳とのあいだで、自分たちが引き裂かれてしまったことを、ぼくたちは思い知っていった。>

善も度が過ぎると悪になるということを言われてハッとした。
癩病患者たちが乱痴気騒ぎをしているところへ「善」の子爵がやってきて説教をし、癩病患者たちは自分の病気と向き合うことになり毎日を苦しく過ごすことになってしまう。死しか見えなくなってしまう「善」などあっていいわけがない。

それにしても、人間をまっぷたつにして「善」と「悪」にしてしまおうなんて、よく考えつくなぁと感心してしまう。
そして、やっぱり文章が素晴しい。無駄な場面や無駄な文章がない。

月夜には、蛇の巣のごとく、邪悪な心のなかに不正な考えがもつれあい、慈悲深い心のなかに自己放棄と献身の百合の花がほころびないわけはなかった。こうしてテッラルバの崖から崖へ、相反する心の騒ぎに苦しみながら、メダルドのふたつの半身はさまよい歩いた。(p152より)