2012/04/08

『幻を追う人』J・グリーン(福永武彦 訳 / 新潮文庫)



 この物語が、事實の影にさえ基かぬことを證明し、また、わたし達の傍らにマニュエルの營んでいた、病人としての慘めな生活や、彼の幽閉や、味のない食事や、母の煎藥もとどめ得なかつた突發的な發熱や、つまり、餘りにもゆつくりと來た一つの斷末魔の、執拗な惡夢の一切を語ることはわたしにとつてた易いだろう。しかしわたしも彼と共に沈默を守りたい。これらの小冊子の最後の頁を閉じながら、──── 幻を追う人の方が、畢竟、わたし達よりももつと鋭い眼差をこの地上に投げるのではないかと、また、不可視の中に浸つている一つの世界に於て、欲望と死との魔術は、わたし達の空しい現實と同じほどの意義を持つものではないかと、わたしは自らに訊いたのだつた。(p274最終頁「マリイテレエズの手記」より)


 この本を初めから読むとこの最後のくだりは「なるほど、最後にうまく要約したな」と思うのだけど、いきなりこんな引用を出されてもさっぱり分からないだろう。
 しかも古い漢字と、だらだらと長い一文に、読む気も失せてしまうだろう。
 そんな引用を載せるなんて何かの嫌がらせかと思われるかも知れないが、この本について感想を述べようとした時に読みにくいことが一番最初の感想だから、まずこの最終頁の引用だと思ったのだ。
 さらに、実際の本は印刷が薄く所々掠れたり消えたりしていてもっと読むのに疲れる。発行は昭和29年だから(私のは昭和35年の4刷)仕方がないのかも知れないけど..... 。


 でも、内容はおもしろい。構成もいい。
 まず「マリイテレエズの手記」として少女が語る。マリイテレエズはしっかりしているのにどこかちょっと足りない感じの少女で、修道院女学校に通っている。彼女自身のことと、彼女の目から見た従兄マニュエルや母親についてが描かれている。
 次いで「マニュエルの手記」として今度はマニュエル側からマリイテレエズや伯母についてと、彼自身のことについて。同じ出来事にしても少女の語りと青年の語りでは相違があり、そういうのもおもしろい。
 そして「起り得た事件」。
 この「起り得た事件」というのが核になる。自分の死を意識したことによって生まれたマニュエルの想像上の、彼の中での現実。テーマは死を迎えることについて。
 精神を病んで生み出されたとされる別の世界の『幻』を追うマニュエル。
 その別の世界に生きる伯爵夫人も死という『幻』を追う。
 「幻を追う人」というのは、マニュエルのことでもあり、又、彼の生み出した世界に住む伯爵夫人のことでもある。
 そういう2つの幻が巧みに織り交ぜられている仕組みだから、じっくり読むと色々と発見したり気付いたりしてもっとおもしろさに深みを感じるのだと思う。
 しかし、入り込むにはこの文章は私にはちょっとしんどい。


 彼女の上にも、僕の上にも、死は抵抗し難い魅力の力を及ぼし、僕等と戲れていた。僕はそれを知つてはいたが、敢えて口に出しはしなかつた。僕は女主人のような幻こそ持つていなかつたが、黑い、大きな星の光は、既に僕の頭と僕の肩とに觸れていたのだ。僕の人生のあらゆる瞬間に、鳥の啼き聲や、雨の囁きのなかに、また石の上の箒の呟きや、肱金の上で廻る扉の歌のなかに、僕はあのしつこい聲を聞いたのだ。子供が茶碗にスプーンをぶつけた音を聞いても身慄いする僕、氣まぐれな風の戲れにも前兆を讀もうとするこの僕が、そうしたことを悟らずにいられたろうか。時には死者たちがいつかは僕の理解する筈のことどもを、僕の耳許に囁くかと思われた。(p216より)


 僕は灯りをつけた。オービュソンの絨氈の上に、開いたままになつている黑い擬革の僕の鞄は、醜く貧弱で、かつ不吉に見えた。まるで遠方で客死した人間の荷物みたいで、形見の衣類をその身寄りに、その主人に、送り返して來たというふうだつた。(中略)
 僕は怖くなつた。死について反省しながら、僕は恐らく死を時分の方へ引寄せていたのだろう。僕は死を、僕の戸口の前をぶらぶらしたり、散歩の最中に道に迷つて立往生している、そういつた類の、ふとした誤ちを犯しかねない、一人の老女の姿に思い描いていた。(p234より)


 サロンは不意に、言いようもなく暗くなつた。外で、巨大な壁のような、空の全長から、夜が一息に崩れ落ちて行くような氣がした。(p247より)